岸八の枕:灯りの行列
連載コラム「岸八の枕」第5回。第1窓「灯しの街」で観測された灯りの行列の記事を読んだ落語家・柳亭岸八が、自分たちの「窓の日」の灯りについて思いを巡らせる。
今朝の紙面で、窓の向こうに灯りの行列が見えたという記事を読んだ。何百もの灯りが坂道を下っていく、という書きぶりに、しばらく手が止まった。
わたしたちにも、小さいながら灯りの行事がある。「窓の日」だ。由来は諸説あって、誰も決着をつけない。七月の分も、九月の分も、潮見橋通りの皆さんが「だいたい七時」で灯りを置くだけの、号令も無い行事だ。向こうの行列ほどの規模ではないし、見ている相手もいない。それでも、窓辺に小さな灯りを置くとき、こちらの気持ちは行事というよりも、何かに向けて何かをしている、という感覚に近い。
記事によれば、向こうの行列が何のためなのかは、分からないままだという。窓番の皆さんは「分かったふりはしない」と繰り返している。立派な心がけだと思う。わたしたちだって、自分の窓辺の灯りの由来を本当のところは知らない。知らないまま、毎年同じ時刻に、同じことをしている。
落語の世界には「分からないことを、分からないまま面白がる」という芸がある。謎解きをしてしまったら、噺は終わりだ。灯りの行列の記事を読んで、わたしは少し嬉しくなった。向こうの世界にも、こちらと同じ「分からないまま続けていること」があるのかもしれない、と思えたからだ。
今夜、高座に上がる前に、窓辺の灯りを一つ点していくつもりだ。何に向けての灯りなのかは、今日もまだ分からない。



