窓の外の手帳:確認、という言葉の重さ
在野研究者・九重果林の連載コラム。玄洲の反復揺らぎ「確認」発表のニュースを聞いて、自分の原稿の中の「確認」という言葉を数え直した話。
けさ、ラジオが「玄洲、反復揺らぎを確認」と読み上げるのを聞きながら、わしは214冊(あるいは215冊)のノートのどこかにある「確認」という字を思い出そうとした。研究者稼業を三十年近くやっていて、この字を書くたびに少しだけ緊張する。「確認」は「分かった」よりずっと控えめな言葉のはずなのに、新聞の見出しに乗るとたちまち重くなる。
昼、次回作の原稿を読み返してみた。九霧の聞き取りに関する箇所で、わしは「確認」という字を7回使っていた。うち3回は「行方不明者の人数が確認された」、2回は「観測記録が確認された」、残る2回は正直に言うと、確認していないのに確認したふうに書いてしまった箇所だった。見つけて、消した。
玄洲の発表を批判するつもりはない。むしろ、あの短い発表文の裏に、書かれなかった「確認していないこと」がどれだけあるか、想像すると気が遠くなる。規模も、系統も、計画も明かさない発表を、それでも「確認」と呼ぶ判断を下した誰かがいる。わしも同じ判断を、もっと小さな規模で毎週している。
62人目には、今週もまだ会いに行っていない。行けば、また「確認」の字を書かずにはいられなくなる気がする。確認しないまま抱えておける時間を、わしは自分で自分に与えているだけなのかもしれない。それを怠惰と呼ぶ人もいるだろうが、九霧の話に関しては、怠惰のほうが誠実に近いと今のところ思っている。
きょうも214冊(あるいは215冊)は積んだままで、62人目のところへは行かなかった。かわりに、7回の「確認」を6回に減らした。今週の成果としては、それで十分だと思うことにする。
