窓外:一巡目に戻らない
編集長コラム「窓外」第3回。州崎のノックが2巡目の途中で順番を崩したと聞いて、規則性という言葉について考えた話。
社会部の若手が「1階から5階まで一巡したので、次はまた1階からでしょうね」と言ったのを聞いて、少し意地悪な気分で「なぜそう思う」と聞き返したことがある。答えは「これまでそうだったから」だった。間違ってはいない。だが記者としては、いちばん危うい答え方でもある。
新聞屋を四十年近くやっていると、規則性というのは見つけるものではなく、疑うために取り出しておく道具だと思うようになる。数字が三回並べば人は四回目を予想する。それ自体は悪いことではない——予報も統計もその上に成り立っている。だが「予想できる」と「分かっている」は、紙面の上では似て非なるものだ。前者は便利で、後者はめったに手に入らない。
私が新人だったころ、当時の観測課の先輩に「チャート紙の山を三日読み込むと、次に来る形が見える気がしてくる。その『見える気がする』が一番危ない。見えた形を追いかけて記録を書くようになったら、記録係を辞めろ」と教わった。揺らぎは、こちらの期待に付き合ってくれるほど律儀ではない、ということを、五十一年間ずっと証明し続けている街だ。
だから今回、州崎の音が律儀な一巡目を裏切って三階から鳴ったと聞いたとき、私は少し安堵した。妙な言い方だが、規則性が続きすぎるほうが、この街では逆に不安になる。崩れたということは、まだ誰にも飼い慣らされていないということだ。
机の上でゆらりが湯呑みを抱えたまま丸くなっている。触角は光っていない。今夜はただの夜らしい。それでいい。次に何が鳴るかを、私たちはまだ知らない。知らないままでいることも、この仕事の一部だと思うことにしている。
