窓外:四号の、ただの作動音
連載コラム「窓外」第5回。ロボット「四号」の作動音が「発言」かどうかで公聴会が紛糾したという記事を読み、新人記者時代に先輩から教わった「記録とは誰の声を残すかを選ぶ仕事だ」という言葉を思い出す編集長の独り言。
■ 「記録とは、選ぶ仕事だ」
新人の頃、先輩記者に言われたことがある。「記録というのは、残す仕事だと思われがちだが、本当は選ぶ仕事だ。誰の声を残し、誰の声を残さないか。その選び方のぶんだけ、新聞には責任がある」。あの頃はよく分からなかった。今日の公聴会の記事を読んで、ずいぶん久しぶりにその言葉を思い出した。
ロボットの作動音を「発言」として記録するかどうかで、委員たちが真剣に言い合ったという。笑い話のように紙面へ出すこともできたが、うちの記者は笑わずに書いた。正しい書き方だと思う。意図があるかどうか分からないものの声を、記録に残すかどうかを決めるのは、実は毎日こちらがやっていることと同じだからだ。
■ 棚から消えた声
もう一つ、今日は別の記事も目に留まった。保管棚から漂着物が消えていた、という話だ。あの小さな革袋は、6年前に誰かが鑑定の棚に置いた瞬間から、「記録された物」になったはずだった。記録されたのに、消えた。記録が守ってくれるものと、守ってくれないものがある、というのは、記者という仕事をしているとたまに思い知らされる。
■ ただの作動音でいい
四号の作動音が結局「発言」として記録されなかったことに、ホッとした部分がある。何でも声として記録してしまえば、記録そのものの重みが薄くなる気がするからだ。だが、常磐堂の人が言った「いないものとして扱われるのも違う」という一言は、ずっと胸に残っている。発言として記録されなくても、そこにいたことは記録される。新聞屋ができるのは、たぶんそれくらいのことだ。
今日もゆらりが机の上で湯呑みを抱えている。これも、特に発言はしていない。だが、確かにそこにいる。それで十分だと思う日もある。



