窓の外の手帳:振られなかった旗
連載コラム「窓の外の手帳」第5回。第5窓で市場の人々が札を掲げたという記事を読み、自著『一九七五年の窓』の取材時に聞いた、ある漂着一世の「旗は振らなかった」という証言を思い出す回。
■ 「旗は振らなかった」
『一九七五年の窓』を書くために何十人もの漂着一世に話を聞いた中で、一人だけ、収容施設の塀の外で旗を振らなかったという証言をした人がいた。「みんなが振っているのを見て、自分だけ振らなかった。向こうに何か伝わるとは思えなかったし、伝わったとして、それが嬉しいことなのか怖いことなのか、自分には判断できなかったから」と。学者からは無視され続けている私の本の中でも、この一節だけはほとんど引用されない。地味すぎるのだろう。
■ 振らない、という手の動き
今回の第5窓の記事を読んで、まずこの証言のことを考えた。札を掲げた市場の人たちのことばかり語られるが、窓の向こうにも、振らなかった誰かが必ずいたはずだ。観測されないものについて記事は書けない。当然のことだが、たまにそれが悔しい。
■ 脚注にしかならない話
編集部に「この話を本編に使えないか」と持ちかけたが、「振らなかった人の話は、記事にする材料がない」と、まあ正しい理由で断られた。私の手帳には、こういう脚注にしかならない話がたくさん溜まっている。誰かに読まれる日が来るかは分からないが、手帳はそのために取っておくものだと思っている。


