抜かない刀:雪辱という言葉
刀士・鹿目千歳の連載コラム第3回。18日の北都戦を前に、「雪辱」という言葉をめぐって思うこと。
向こうが「雪辱」という言葉を使っていると聞いて、少し困ってしまった。こちらは開幕戦を、勝った試合の一つとしか思っていない。向こうにとっては負けた試合として、ずっと別の棚にしまわれていたことになる。同じ試合でも、しまわれる棚は人によって違う。当たり前のことだが、毎回少し驚く。
水無瀬の若い衆に「研究されていると思って入る」と言われて、私も昔そう言っていた時期があったのを思い出した。研究されている、という言葉には、自分がまだ何か特別なものを持っているという前提がある。実際のところ、こちらが一番気をつけるべきなのは、向こうの研究よりも、自分の側の慣れだ。二度目の相手には、一度目より少し気が緩む。これは私自身にも起きる。
大将戦に、今回も出る。抜かない、という方針を変える理由はいまのところ無い、と前の取材でも答えたが、正直に言えば「無い」というのは「まだ見つけていない」というのとほとんど同じ意味だ。見切りの三人の審判が、私の一本をどう見るかは毎回分からない。分からないままでいいとさえ思っている。分かった気になった日が、一番危ない。
雪辱という言葉を向こうがどう使おうと、こちらの刀が抜かれる理由にはならない。抜くかどうかを決めるのは、向こうの気持ちではなく、こちらの見切りだ。18日、北都の道場に着いたら、まず相手の顔を見る。研究されているかどうかより、相手がどんな顔で立っているかのほうが、たいてい多くを教えてくれる。



