岸辺食堂:路地の話
深川2丁目で飲食店を営む瀬能タカラの連載コラム。望郷の会の逮捕を聞いた常連の一世客の静かな反応と、亀戸の「消えた路地」の話で盛り上がる店内について。
望郷の会の逮捕を知って、うちの常連の一世客が珍しく一言も喋らなかった夜があった。いつもは一番よく喋る人なのに、湯呑みを両手で包んだまま、黙って新聞記事を見ていた。帰りがけに「俺は騙されなかったけど、騙された側の気持ちは、分からないとは言えない」とだけ言って、いつもより早く帰っていった。それ以上は聞かなかった。聞くことが優しさとは限らない夜もある。
代わりに盛り上がったのが、亀戸の「消えた路地」の話だ。地図にはあるのに誰も覚えていない、という話を聞いて、常連の一人が「うちの実家の前の道も、よく見たら地図と少し違う気がする」と言い出し、別の客が「気にしすぎだ」と笑い、結局みんなで古い町内地図を取り出して見比べる騒ぎになった。路地が見つかったわけではないが、こういう時だけカウンターの奥から埃をかぶった地図が出てくるのも、うちの店らしいと思う。
望郷の会の話と、消えた路地の話。一つは誰かの弱みを食い物にした話で、一つは誰のせいでもなさそうな話。重さは全然違うのに、今夜のうちの店では同じくらいの時間をかけて話されていた。向こうから何か届くことへの望みにつけ込む人がいる一方で、こっちの地図からただ何かが消えても誰も困らない。この街の分からないことには、優しいものと悪意のあるものが混ざっているのだと、今夜は改めて思った。
常連の一人が帰りに「路地が本当にあったら、うちの店の裏口から近道になってたかもな」と冗談を言って出ていった。本当かどうかは分からないが、今夜はそれで十分面白い話だった。



