岸の子守唄、初の公開合唱へ最終リハーサル 岸浦さん「歌える者が三人、増えた」
半世紀ぶりに譜面化された「岸の子守唄」が、9月7日の漂着記念日の集いで初めて公の場で歌われる。29日、ハーフの中学生合唱団が採譜者の岸浦汐さん(74)を招いて最終リハーサルを行った。
「岸の子守唄」は、透暦元年(1975年)の集団漂着の直後、湾岸の収容所で漂着一世たちが子どもを寝かしつけるために歌っていたとされる歌だ。故郷の世界線の言葉で歌われ、歌詞の正確な意味は一世の間でも一致していない。「海」「窓」「帰り道」を指すらしい言葉が含まれることだけが、聞き取り調査で分かっている。
半世紀のあいだ、この歌は楽譜を持たなかった。一世たちが「紙に書くと、歌が向こうに帰れなくなる」と譜面化を拒み続けたためだ。転機は3年前。最後の伝承者の一人だった岸浦汐さん(74)が、「私が死ねば、歌ごと消える。帰れないのは同じことだ」と、自ら採譜を申し出た。市の無形文化財調査団と2年をかけ、13番まである旋律と歌詞を音写で記録した。
■「発音は、顔で教わるもの」
29日のリハーサルには、湾岸第三中学校を中心とするハーフの生徒28人と、公募で加わった漂着系以外の生徒9人が参加した。岸浦さんはピアノの横の丸椅子に座り、発音の細部を一つずつ直した。喉の奥を鳴らす音、語尾で息だけになる音。「発音は、紙では教えられない。顔で教わるものです」と、生徒の口元を自分の指で示しながら繰り返した。
故郷の世界線の言葉には、もう辞書がない。生徒の一人、3年の男子(15)は「意味は分からないけど、2番のところでいつも祖母の顔が浮かぶ。意味が分からないのに浮かぶのが、不思議で好きです」と話した。
指導にあたる音楽教諭は、当初は音写の仮名を頼りに練習していたが、途中から仮名を配布するのをやめたという。「仮名を見ると、日ノ國の音になってしまう。耳と口だけで渡す方が、結局正確でした」
■辞書のない歌を守る
採譜と並行して、市の調査団は歌詞の言語学的な記録も試みた。音素の目録づくりには成功したが、語義の特定は「海」「窓」「帰り道」とおぼしき3語の推定にとどまった。調査にあたった言語学者は「対訳者が存在しない言語の語義は、原理的に確定できない。私たちにできるのは、音を正確に残すことと、推定を推定のまま書き残すことだけだ」と話す。報告書はあえて「意味不明」ではなく「意味未詳」という語を使ったという。「不明は行き止まりの言葉。未詳は、まだ途中だという言葉です」
9月7日の集いでは、合唱の前に司会が歌詞の対訳を読み上げない。「訳せないから訳さないのではなく、訳さないまま渡すことを、一世たちが選んだ」と実行委員会は説明している。
■譜面をめぐる、いまも残る痛み
譜面化には、いまも複雑な思いを抱く人がいる。採譜に最後まで反対した一世の女性(79)は本紙の取材に、「汐さんを責める気持ちはない。ただ、私はあの歌を、覚えている人の数だけの歌だと思ってきた。譜面になった歌は、もう少し別の歌です」と話した。その上で、9月7日の集いには行くという。「別の歌になっても、聴けば分かる。あれが帰り道の歌だということは」
岸浦さんは採譜の完了後、原譜を市に寄贈せず、自宅の仏壇の引き出しに保管している。「市の書庫は立派すぎる。あの歌は、生活の道具の隣にいるのがいい」。市に渡したのは複製のみで、原譜の公開は「私が死んでから」と決めているという。
■四十一人の「歌える者」
リハーサルの最後、岸浦さんは全13番を生徒と通して歌った。終わったあと、しばらく目を閉じたままだった。
「採譜を始めたとき、この歌を最後まで歌える者は、私を入れて四人だと言った。訂正します。今日、三十七人増えた」と岸浦さんは語った。「一世はもう、数えるほどしかいない。だが歌は、数え切れなくなっていく。それでいいのだと、今日思いました」
合唱団の練習は昨年10月から週2回、延べ70回を超えた。当初の参加希望者は12人だったが、汀島るい選手が配信で「妹が歌うので見に行く」と話したことを機に応募が急増し、選考を行う異例の事態になったという。指導の音楽教諭は「動機は何でもいい。歌は入り口を選ばないので」と笑う。
公開合唱は9月7日の漂着記念日、湾岸の岸浜公園で正午から開かれる式典「漂着五十一年の集い」の冒頭で披露され、参加は自由。市によると、式典に招待される漂着一世は121人で、10年前の約半数になった。会場の様子は市内3カ所の福祉施設にも中継される。
岸浦さんは当日、舞台には上がらない。「客席の一番後ろで聴きます。この歌は、送り出したら、もう私のものではないので」

