呼気三十六回、ひと月の夜 流行の「月輪呼吸」、記者が試した31日間
「小型の漂着生物が視えるようになる」——そんな触れ込みの呼吸法「月輪呼吸(がちりんこきゅう)」が中高生の動画界隈で流行している。教材もある。買えば3万8千円。買わずに試せる範囲で、45歳の記者が8月の31日間、毎晩実践した。結論から書く。何も視えなかった。ただし、報告すべきことが何もなかったわけではない。
■作法は、無料の範囲だけ
月輪呼吸の作法は、動画で無料公開されている部分がすべてである。就寝前に窓を開け、月のある方角へ、長い呼気を三十六回。雨や曇りの夜は、月の「あった方角」でよい。それだけだ。
教材はある。買えば3万8千円で、呼吸の順序を記した冊子と音声、それに罫線だけの「開眼記録帳」が付くという。記者は買わなかった。買わずにどこまで試せるのかを確かめることも、この検証の目的だったからだ。
期間は8月1日から31日まで。雨で網戸ごしにしか開けられなかった3晩を含め、31晩すべてで行った。場所は自宅の六畳間の窓辺。時刻は日によって前後し、早い日は午後10時、遅い日は午前1時を回った。
■初日、数を二度忘れる
つまずいたのは呼気の長さでも月の方角でもなく、数だった。三十六回を数え終える前に、二度、いま何回目かを見失った。呼吸を数えるというのは、思いのほか難しい。
三日目に、数える代わりに指を折ることにした。両手で十、屈伸で三十六。これは動画にはない我流である。四日目には、その我流のせいで一度、四十二回まで数えていたことに気づいた。多い分には問題ないらしい、と界隈の書き込みにはある。何を根拠に問題がないのかは書かれていない。
■三十六という数
なぜ三十六回なのか。元の動画は説明していない。界隈では「月の満ち欠けの日数の半分に近いから」「昔の数え歌が三十六だから」など諸説が書き込まれているが、どれも出典がない。記者が確認できた最も古い投稿は昨年11月のもので、そこでは「四十回」と書かれていた。数が三十六に落ち着いた経緯も、たどれない。
作法にも変異がある。窓を閉めたまま数える「閉窓派」、月ではなく海の方角へ向く「湾岸式」、二人一組で交互に数える方式。どれも動画のコメント欄で生まれ、数週間で消えていく。文化部の記者としては、風習が生まれる速度をこれほど間近で見る機会はめったにない。
■十日目あたり、眠くなる
変化はあった。早く眠くなるのである。長い呼気を三十六回も繰り返せば、それはそうだろうという話ではある。ただ、寝つきの悪さで市販の睡眠導入食品を試したこともある身としては、無視できない変化ではあった。
もうひとつ。窓を開けて夜に立つ習慣のせいで、近所の夜に詳しくなった。終バスがカーブで軋む音。隣家の製氷機が落ちる音。風が路地を曲がるときだけ鳴る、どこかの雨樋。これまで十年、同じ部屋で寝ていて、一度も聞いていなかった音である。
二十四日目の夜、名前の分からない羽音がひとつ、頭上を横切った。視えはしなかった。聞こえただけだ。翌朝、ベランダの手すりに羽根が一枚落ちていたが、鳥のものと区別する知識を記者は持たない。
もっとも、家族の評判は芳しくなかった。毎晩窓辺に立つ中年の姿は、同居する側からすると不審者に近い。三日目の夜、妻に「何をしているのか」と真顔で聞かれ、仕事だと答えたら、もっと真顔になった。
■界隈の外側で、相談が増えている
期間中、界隈の入り口にいる人にも話を聞いた。城東の中学2年の女子生徒(14)は、同級生4人と「何回まで数えられたか」を毎朝報告し合っているという。「視えるかどうかより、続いてるかどうかの話になってます。教材を買った子は、うちの学年にはいません。高いので」
一方で、市消費生活センターへの感応開発関連の相談は、8月に入って増えている。同センターの相談員は「『開眼保証』をうたう教材の解約相談が中心で、契約者は10代の子どもの保護者が多い」と話す。この種の商法をめぐっては、消費者庁が業者に初の業務停止命令を出したばかりだ(既報)。
TDAの見解は変わらない。「透過感応の発現条件は未解明であり、『開発法』なるものに科学的根拠はない」。その通りだと思う。
城東の市立中学校の教諭(38)は「朝の一時間目に眠そうな生徒が増えたのは事実です。ただ、それが呼吸法のせいなのか、夏休み明けだからなのかは分けられません」と話す。学校としては、深夜に窓を開けて外に向かって呼吸する行為そのものを止める根拠がない、というのが率直なところだという。「危ないのは呼吸ではなく、場所ですから」
■買わなくていい。窓は、開けてもいい
界隈にはこの夏、「高い場所ほど視えやすい」という派生の俗説も出回り始めている。出どころはたどれない。屋上やベランダの手すりの外側で数を数える動画も見た。あれは呼吸法の話ではなく、単に危ない。
ひと月やった者として、報告できることは三つだ。何も視えない。よく眠れる。そして、自分の住む町の夜には、思っていたより音が多い。
教材は、買わなくていい。窓は、開けてもいい。柵の外には、出ないでほしい。

