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文化

岸辺の人々(7) 岸谷タネさん、101歳が「聴く係」で聴いた初めての本物

2026年(透暦52年)9月7日 (文化部・遠野汀) English

©東亰新報

9月7日正午、岸浜公園。101歳の岸谷タネさんは「聴く係」と自ら決めていたとおり、子守唄の間、まぶたを閉じたまま身じろぎ一つしなかった。炊事場で幼い頃に聴いた歌が、51年の時を経て初めて人前で歌われる瞬間だった。

■送迎ボランティアと会場へ

午前11時前、送迎ボランティアの朝倉岬さん(20)の車で岸谷タネさんは岸浜公園に到着した。既報のとおり岸谷さんを担当する朝倉さんは前夜の電話で「明日は聴く係だから、気楽なものです」と笑う岸谷さんの声を聞いていたが、当日の車内は「思ったより静かでした。何も話さず、ずっと外を見ていらっしゃいました」と振り返る。会場に着くと、市民協働課の職員が最前列近くの席へ案内した。

■炊事場の記憶、51年越しの本物

岸谷さんにとって「岸の子守唄」は、収容施設時代に炊事場で働きながら耳にした歌だ。既報のとおり本人は「歌えないが、聞こえると炊事場が静かになったのを覚えている」と語っていた。今回、湾岸第三中学校を中心とする合唱団37人が全13番を通して歌い切る間、岸谷さんはまぶたを閉じたまま、一度も目を開けなかったという。付き添った朝倉さんは「泣いてはいらっしゃらなかったんです。でも、歌い終わった瞬間、大きく息を吐かれて。ああ、聴いていらしたんだな、と分かりました」と話す。

■最前列近くの席で

案内された席は舞台からそれほど遠くない列だった。岸谷さんは普段どおりの紺の絣の着物に薄手の羽織を重ね、車椅子は使わず、朝倉さんの腕に軽く手を添えて席に着いたという。既報の「岸辺の人々(6)」取材時、岸谷さんは深川の長屋の畳の上で「今年は、聴く係ですから」と実務的な口調で語っていたが、朝倉さんによれば当日の様子もその言葉どおりで、開式前は周囲の様子を静かに眺め、隣に座る他の一世と短く言葉を交わす程度だったという。

■曾孫の声、聴き分けられたか

岸谷さんの曾孫は合唱団の一員として同じ舞台に立った。式典後、岸谷さんに曾孫の声が聴き分けられたか尋ねると、「分かりません。みんな同じ歌を歌っているので」と実務的な口調で答え、「でも、あの子が今日ここにいたことは分かります」と続けた。孫夫婦は「本人は落ち着いていましたが、こちらは前日から気が休まりませんでした」と既報どおりの心境を語りつつ、「終わってみれば、無事に済んでよかった、それだけです」と胸をなで下ろした様子だった。

■故郷は語らない、歌は別

岸谷さんは以前から、漂着前の故郷について「話すと、待ってしまうから」と自ら語ることを封じてきた。一方で「歌だけは別です。歌は、話ではないから」とも語っており、今回の披露についても「歌は、ちゃんと歌ってもらえました。それで十分です」とだけ述べ、歌詞の意味について尋ねられても表情を変えなかった。式典終了後、朝倉さんに付き添われて帰路についた岸谷さんは、車に乗り込む前に一言、「来年も、聴く係で構いません」と話したという。

■51年という距離

岸谷さんは1975年の漂着当時すでに50歳だった。既報のとおり収容施設では炊事場を任され、帰化の際に「岸」の字を選んで岸谷姓を名乗り、京橋の和菓子屋で70歳まで餡を炊いてきた。その半生のほとんどを、故郷の話を封じたまま過ごしてきたことになる。式典から戻った夜、孫夫婦によれば岸谷さんはいつもどおりの時間に床についたといい、「特別なことは何も。ただ、いつもより少し、機嫌が良かった気はします」と話した。本紙も創刊114年のうち51年にわたってこの式典を報じてきたが、当事者の声を「聴く係」という一言で受け止められる年が来るまでに、これだけの歳月がかかったことになる。

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