採譜者・岸浦汐さん、本番前夜の譜面点検 「歌える者を、また一人」
「岸の子守唄」を半生かけて採譜してきた音楽教師・岸浦汐さん(74)は6日夜、公民館で明日の本番用の譜面を最後に点検した。全13番の歌詞は今も「意味未詳」のまま、対訳を配らない方針を貫く。連載「岸辺の人々」で紹介してきた一世の一人でもある岸浦さんに、本番前夜の思いを聞いた。
■譜面は手元に、公開は「死後」のまま
湾岸市民会館での最後の合同練習(既報)を終えた6日夜、岸浦汐さんは長年ピアノを教えてきた地域の公民館にひとり残り、明日の本番で指揮者用に使う譜面を点検していた。原譜は自宅の仏壇に保管され、公開は「死後」という方針は今回も変わらない。市には複製のみが渡されている。「大事なのは、譜面をしまい込むことじゃないんです。歌える人を、今できる範囲で増やすこと。それだけなんです」と岸浦さんは話す。
■「意味未詳」を守る理由
全13番の歌詞は、海・窓・帰り道の3語だけが意味の推定できる語として報告書に残り、それ以外は「不明」ではなく「未詳」という言葉があてられている。式典では対訳を読み上げない。この判断について岸浦さんは「意味が分かってしまったら、たぶん、この歌は今の歌い方じゃいられなくなる。分からないまま声に出す、というところに、この歌の役目があると思っています」と述べた。合唱団への指導も発音記号を使わず、口移しで続けてきた。「文字にした瞬間に、正しい発音が一つに決まってしまう。でも、この歌はきっと、一世の数だけ発音があった歌なんです」
■採譜を始めた理由
岸浦さんが子守唄の採譜を始めたのは30代の頃だという。「当時すでに、歌える一世の数が減り始めていました。誰かがちゃんと音を拾っておかないと、そのうち誰も歌えなくなる、という焦りが先にありました」。当初は数人の一世から個別に聞き取り、微妙に異なる節回しを一つずつ書き留める作業だったといい、「同じ13番でも、歌う人によって節が少しずつ違う。どれが正しいかを決めるんじゃなくて、全部を残す、というやり方でやってきました」と振り返る。今回の合唱団指導でも、複数の節回しをあえて統一せず、パートによって微妙な違いを残しているという。
■一世として、聴く側として
岸浦さん自身も一世であり、既報のとおり最高齢の一世・岸谷タネさん(101)は明日、式典に「聴く係」として参列する。6日の合同練習には岸谷さんが体調確認を兼ねて短時間立ち会い、終盤に落涙したことが既報で伝えられている。岸浦さんは「タネさんが泣いたのを見て、こちらも危うく指揮の手が止まりそうになりました。あの人の涙は、意味が分からないなりに、みんなに伝わるんです」と振り返った。かつて岸浦さんの教室に通っていたという教え子の一人が、今回の式典運営を市民協働課職員として支えていることも明かした。「あの子がピアノをやめたときは寂しかったけど、こういう形で戻ってくるとは思いませんでした」
■歌える者を、また一人
今年の合唱団は湾岸第三中学校の生徒37人。既報のとおり、ハーフの生徒28人に加え、公募の漂着系以外の生徒9人が加わった構成で、当初の想定より歌える生徒の裾野が広がった形になる。岸浦さんは「来年はもう少し増やしたい、というのが今の望みです。無理に増やすものじゃないんですが、歌いたいと言ってくれる子が来たら、断らないようにはしています」と話し、伝承の輪を少しずつ広げる考えを示した。
■明日、正午
式典は7日正午、岸浜公園で開幕し、冒頭に岸の子守唄が披露される。点検を終えた岸浦さんは、譜面を鞄にしまいながら「緊張はしていません、と言ったら嘘になりますが、これは何十回目かの緊張なので、慣れてはいます」と笑い、公民館の鍵を閉めた。

