窓の外の手帳:投げられた、という事実
連載コラム「窓の外の手帳」第7回。第5窓から史上初めて「意図して送られたとみられる物」が回収されたという記事を読み、揺らぎ起源論の在野研究者である筆者が、長年向き合ってきた「向こうに意図はあるのか」という問いの立て方そのものを見直す回。
■ 「意図はあるのか」ではなく「投げたのか」
第5窓から物が投げられたという記事を読んで、まず思ったのは、自分が長年立ててきた問いの立て方が、少しずれていたかもしれないということだった。『一九七五年の窓』を書いていたころから、自分はずっと「向こうに意図はあるのか」という、答えの出ない問いばかり考えてきた。だが今回の記事が伝えているのは、もっと単純な事実だ——投げた。それだけでいい。意図の中身まで保証してくれる言葉ではないが、動作そのものは、誰かが誰かに向けて腕を振った、という事実として残る。
学界に相手にされない研究者の悪い癖で、こういう記事が出るたびに、自分の手帳の古いページをまた繰ってしまう。
■ 一方通行の文通、という言い方の意味
向こうから送られて、こちらは送り返せない。何年も前からそう説明されてきたし、変わらない原則だということも承知している。ただ、今回の記事を読んで、「文通」という言葉がにわかに実感を持って迫ってきた。手紙は届くが、返事は出せない。差出人の顔も住所も分からないまま、届いた一通だけを手に取って、意図があったかどうかを推し量る——これは文通というより、もっと古い言葉で言えば、瓶に入れた手紙のようなものかもしれない。流れ着いた瓶を拾った者が、投げた者の気持ちを知る術は、本当は無い。それでも人は、拾った瓶の中身を何度も読み返す。
■ 解読を急がない、という誠実さ
次元調査課が「意味づけは急がない」とコメントしていたのが印象に残った。長年、断定しないことの誠実さについて書いてきた身としては、今回も同じ態度が貫かれたことに、少し安心している自分がいる。投げられた物の中身がいつか読めるようになるのか、読めないままなのか、それは分からない。
同じ日、よりにもよって国王という立場の客が、同じ建物の中で現物を見せてもらえなかったという記事も読んだ。王室の血筋であっても手続きの外には出さないという判断を、私は好ましく思う。向こうから投げられた物に、こちら側の身分の上下まで持ち込まないという態度は、断定しないことの誠実さと、根っこの部分で同じ姿勢なのだと思う。ただ、投げたという事実だけは、もう動かない。古い手帳のページが、また一枚増えた気がする。

